吉田松陰をめぐる女性たちという本を読んだ。

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吉田松陰をめぐる女性たちという本を読んだ。

こんばんは、会員制ビジネス構築コンサルタント@福だるまです。

数日前に伊勢佐木町の有隣堂の前でやっていた古本のワゴンセールで250円+消費税で買った「吉田松陰をめぐる女性たち」を読む。

木俣秋水という方が書かれた本だが、著者の経歴なぞは知らない。

題名が気になったから手にしたが、古本屋の2人のおやじの態度がちょっとだけ胡散臭かったのが玉に瑕。

 

 

松陰先生には、女性の影は無いはずなのに「めぐる女性」とは?

気になって当たり前なのだが、若しかして僕の勉強不足?

が、そうじゃなかった。

 

やっぱりねって、感じの目次だった。

一の章ー母瀧子の巻

二の章ー義母吉田久満子の巻

三の章ー妹千代の巻

四の章ー久坂文子の巻

五の章ー烈婦登波の巻

六の章ー入江満智子と高須久の巻

七の章ー吉田松陰の女子教育論

 

 

生き急ぎ、終生寸暇を惜しんで勉強された先生に女性は似合わない。

俗に言う女にうつつをぬかしている時間は無かったのだから。

 

いの一番にお母さんのことが書かれているのが素晴らしい。

この母にして、この子ありだからね。

 

 

松陰先生のお兄さん杉民治の小文の[現代語訳]

文政九年十二月杉百合之助と結婚した。
三男四女を生み、長男民治が杉家を継ぎ、次男寅次郎は吉田家の養嗣子となった。
四人の女の子も中、三歳艶子は耀に幼にして死し、長女芳子(千代)は児玉氏に、次女寿子は小田村氏に、四女美和子(文子)は久坂氏と結婚、末子の敏三郎は不幸唖であったが、早く死んだ。

瀧子は仁愛の精神を持ち、且つ勤倹、辛抱強かった。
杉家は貧乏であったが、最初は萩城の東護国山の南の麓に住いし、常に田畑を耕し、暇あれば学業に励んだ。
瀧子も夫に従って、或いは野に耕し、山で木を切り、寒暑を問わず働き、具に労働の苦しさを味わい、時に女ながら馬を使って畑で働いた。
その後、百合之助は百人中間組頭兼盗賊改め方に任ぜられ城中に住むこと六年、しかも家では女中や僕べを雇う資力は無く、瀧子が夫に代わって一切の家事を処理し、田畑を耕作した。
洵にその勤労は見上げたものである。

しかし瀧子は平然とし、貧乏な環境にありつつ、子女の教育に特に心を用い忙しい家事であっても学問だけはちゃんとするように指導した。
父の弟玉木文之進は人となり厳しく、簡単に人を褒めない人物であったが、瀧子だけは大丈夫ですら及ばずと激賞した。
後に寅次郎が成人して松下村塾を継ぐことになり、城下の青年が来学したが瀧子はこれらの弟子たちを可愛がり、時たま物品を与えて誉めたりした。

 

 

陽気な母親像
松陰の母瀧子は、また陽気な人であった。結婚後、家庭で身体と精神の疲労を癒す一番よい方法は入浴であると主張して、貧困の中にも毎日湯を沸かした。
ある時、兄梅太郎が足にあかぎれが出来ていたところに入浴したので、傷口が湯にしみて痛み、歩く時に足をつまだてて歩いていると、その姿を見た母親が「あかぎれはこゑしき人のかたみかなふみ(踏み)みるたびにあいたくもある」という狂歌を詠んで家内中を笑わしたり、またその梅太郎が成長して結婚した時、その夫人が家内が多いので洗濯物が多くて困っている時、たまたま蚊帳が破れて嘆息しているのを見た瀧子は「やぶれかや程目出度きものは無し、つる(吊る)とかか(蚊)めが舞い下る」と唄って爆笑さした、という
逸話もある。

 

 

松陰先生が獄中で断食に入ったと聞き、

ひと筆申し上げます。そなたはどうして暮らしておられますか。先日は断食の事を薄々耳にし、余りにも心配なので申し上げます。昨日より食事をお断ちということを聞いて驚いています。万一そのために死ぬ、ということがあれば第一の不孝、洵に口惜しい次第です。母も最近は病気がちで弱っており、このままでは長生きも難しく、たとい野山の獄中に居ても、無事でさえあれば自分にとって大きな力になりますので短慮をやめて長生きをしてくれることを祈ります。
この品はわざわざ作って送りましたのでお母さんに対し(母の顔をたてて)、是非食べて下さい。幾重にもお願いします。心を改めて下さい。かえすがえすも祈ります。

 

 

松陰先生が江戸送りとなる最後の一夜

瀧子は、松陰が風呂に入った時、初めて母子二人となり、その肩を流しつつ、「大さん、きっと無事に帰って下さるでしょうね。」と言ったところ、松陰は力強く、「大丈夫、必ず帰ってきます。」と答えたと言う。
しかし、妹たちには、
「心あれや人の母たる人たちよ、かからん事は武士(もののふ)の常」の一首を送り、すでに必死を期した心境を和歌に残している。

 

 

「父と兄、玉木叔父」への永訣の手紙
平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず、非常の変に立到り申し候。悔部嘸嘸愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候。

『親思ふ こころにまさる 親ごころ
     けふの音づれ 何ときくらん』

 

 

十月二十七日 辞世の句

吾今国の為に死す、死して君親に負かず、悠々たり天地のこと、鑑照明神なり

『身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂』

この時に斬首した首切り浅右衛門(山田浅右衛門)は、愈々首を斬る刹那の松陰の態度は真にあっぱれなものであったと。
悠々として歩を運んで来て、役人共に一揖し「御苦労様」といって端座した。その一糸乱れざる、堂々とした態度は幕吏も深く感嘆した。

 

 

瀧子の宗教観

『生きて皇恩に浴し、死んだ後には極楽に遊ぶ、人間の幸福之に過ぎるものは無い』

 

 

戒名
「実成院釈知覚乗蓮大姉」

大谷法主がつけられてという。

また、法主は死に当たって

「国のため つくしゝのみか 伝えつる 
      みのりの道は ふみもたがへず」と詠まれたという。

 

 

妹(千代)へ

「婚家を大切にすること、夫を敬うこと、奢りを戒しむる事」
の三か条を家訓として残すように教える。

 

 

女学校建設を提唱される

四十歳、五十歳以上の武士の未亡人で貞節を守る堅固な婦人で、学問、技能を能くする者五、六人を教師として学校内に寄宿さし、武士の子八歳から十歳以上の者に手習や学問、そしてまた婦人の道等を練習させ、希望のこれら生徒の寄宿も許し、きわめて厳正に教育することを主張している。

『教法極めて厳整を要す』と。

 

 

 

松陰先生の女子教育論

真の人間を作ろうとするには先ず真の母性を作らねばならぬ。

苟くも、士道を行はんとすれば先ず女性を教養せねばならぬ。

昔から英傑の事蹟の跡をみるに、何れも母が偉いので、孟子の母が
居を三度び遷した故事は、今日でも教育に対する孟母の偉大な見識を物語る逸話として伝えられ、村や街の風教を興すには、先ず女子教育の振作が大事であると云う事実を看破されていたという。

 

 

 

翻って我が福だるま家の母は、浄土真宗の家系から脱し狐つきの講である創価学会とやらに逃避した。

 

僕の女性遍歴は、このことがトラウマとなって小さな「しあわせ」を求め続けていたのかも知れない。

 

が、これが最後の女性だと思っていた人との熟年離婚。

三行半を突きつけられる不甲斐無さは、僕らしいけどね。

 

でも、人生これからだ。

次の恋愛が出来ることを信じて、楽しく面白いことをしていこう。

 

 

 

尊敬してやまない松陰先生の一面を書くことができて幸せでした。

僕は、お風呂に入って肩を流して貰った記憶など一切ないが、このシーンを思い出すたびに泣けてくる。

 

 

 

じゃあ、またね。

 

 

 

 

会員制ビジネス構築コンサルタント@福だるまでした。

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