元カノとの久しぶりの会話は、昔にタイムスリップできた。

元カノとの久しぶりの会話は、昔にタイムスリップできた。

おはようございます、会員制ビジネス構築コンサルタント@福だるまです。

元カノとの久しぶりの会話は、昔にタイムスリップできたってタイトルは変わってるよね。

そうなんですよね、この元カノと言っても大昔に付き合っていた人。

 

一昨日の恩人が亡くなっていたことにショックを受けて、親戚のような身内である彼女に5年ぶりくらいで昨日電話した。

「お久しぶり、福だるまだけど。」

『え?どうしたの?』

 

「昨日さあ、昔からの友人が亡くなってたのがショックで君の安否確認がしたくってさ」

『そうなの、私は元気よ』

 

「良かった、嬉しいよ」

『私も気にはなっていたんだけどね、なかなかね……』

『横浜に行ったときには、Mには会うんだけどね』

そうなんです、Mというのは共通の友人というか元奥さんのこと。

 

『でもあなたのことはね……』

「お互いに話題にしたくないでしょ、勝手な男だから」

『そういう訳じゃないけど、なんとなくね』

 

「Mが癌を切ったの知ってた、知らないよね」

『え?そんなこと一言も言ってなかったわよ』

「それも、二度」

『どこだったの?』

「大腸ガンと肺ガン」

『大変じゃない、でも働いているんでしょ?』

 

「そうだよ、でもあいつ一人で溜め込むからね」
「癌は、ストレスが一番なんだけど、その原因は俺でしょ」

『そうだよね、あの子本当に何も言わないから』

 

 

「去年の11月に正式に離婚したんだよ、Mの希望で」

『そう、それも知らなかった』

 

 

「別れたといっても、他人じゃないからね」

『やっぱりね、あなたらしいわね』

 

「また、電話するよ、ありがとうね」

『私からも電話するわ、今度は』

 

ということで電話を切ったけど、良い思いでだけが残る素敵な女性です。

 

 

が、話の途中で『幾つになるの?』

「今度の6月で67歳」

『そうなんだ、私なんて73だよ』

これって、普通の方から見れば爺さんと婆さんの会話かもね(笑)

 

でも、僕たちにとっては42年前の古き良き時代がすぐに思い出される、楽しかった記憶は半端じゃなく脳裏に刻まれてるよ。

 

 

 

そう言えば、元奥さんと初めて男と女の関係になったのが彼女の誕生パーティーを僕のお店「ペガサス」でやった日だった。

皆を送り帰した後の二人だけの二次会から始まった。

 

 

僕に好感を持ってくれてたのは良く分かっていたが、水商売の人しか付き合ったことがない僕は躊躇していたのも事実。

それに加えて、年下の女性とは一度も付き合ったことが無い。

 

2つの初めてが重なっていたが、あの日は何となくその気になった。

忘れもしない、1979年3月23日、28歳の時だった。

 

 

 

もう時効もいいところだから書くが、元カノさんは横浜・関内の高級クラブのママをしていた有名人。

付き合ってた頃は、川崎の彼女の妹分のお店を手伝ってた。

たまたまこの妹分が独立した時に僕も手伝ってあげていた。

いつも着物姿が粋で憧れてもいた。

 

そんな時、飲みすぎたのか気分が悪そうだったので送って行ったのがきっかけで、関係を持った。

当時の僕には、横浜に同棲している彼女がいたのも知っていたけど大人の関係は1年続いた。

 

目黒に事務所兼用の1LDKのマンションを借りて、居候を寝泊りさせていたから、この居候がアリバイ工作をする係りでもあった。

携帯電話とかスマホなんて、考えられない時代だったので横浜と川崎と目黒の3本の固定電話が命綱でもあった。

 

横浜の彼女から目黒に電話があると、
居候が「先輩はまだ帰宅していません」と言って川崎に電話する。

 

僕は、その電話を川崎で受けて横浜の彼女に、
「今、帰ってきたけど何かあった?」

『ううん、ちょっと声を聞きたかっただけ』

「そう、じゃあ、おやすみ」

 

とかいう話で、週の内3~4日ずつ横浜と川崎の部屋に泊まっていたから、実際に目黒の部屋はアリバイ工作員専用と化していた。

 

 

 

同棲の掛け持ちは、何ていうのかな?

不倫じゃないよね?

 

 

この様な関係を1年も続けて、理解してくれていたのが昨日電話した元カノ。

 

今風に元カノなんて書いちゃっているけど、僕が頭があがらない女性の一人で大恩人でもある。

 

 

本当に感謝してるから、彼女のために終の棲家を横浜に作ろうと思う、介護ホームのような、これが身近な僕の夢である。

大昔に横浜で超有名だったゲイバー「ピノキオ」のママと一緒に長崎で別荘を買い隣組として80過ぎの入院がちな彼氏と暮らしているというけど、彼氏に万が一のことがあれば横浜に帰ってくるはず。

 

 

 

勿論彼女だけでなく、僕と一緒に暮らしてくれた女性たちも誘うつもりだが、今がしあわせな人は来ないかな?

 

昔話に花を咲かせて、僕のことを肴に女性同士で飲み明かすなんて生前葬のようで面白いなと思っているのは僕だけ?

 

 

 

 

皆、一人でいるって寂しくない?

 

 

 

僕の原動力は、女性。

 

 

 

暫くパワーが落ちているような気がしていたが、新しい女性との出会いが無いのが原因のようだ。

 

 

今はやるべきことが沢山あるから、少し片付いたら遊ぼう。

 

 

 

じゃあ、またね。

 

 

 

 

 

 

 

会員制ビジネス構築コンサルタント@福だるまでした。

横浜に久しぶりで帰って過去を思い出してみた。

こんばんは、会員制ビジネス構築コンサルタント@福だるまです。

横浜に久しぶりで帰って過去を思い出してみた。

12日の今度借りる部屋の契約が終わり、内見もしていなかったので様子を見に寄ってみた。

その帰り道、最初に横浜に住んだところ「中区翁町」の1LDKの部屋はそのまま健在だった。

関内駅から徒歩3分、部屋から京浜東北線が見え石川町方面から来る電車を確認してからでも間に合ったような記憶がある。

5年も暮らしたところだから結構な思い出が甦ってきた。

インコを放し飼いにして飼っていたので、壁紙などを齧られ相当に汚くされたりもしたが、良くなついて朝は起こしてくれたものだ。

近隣は殆どがマンションになり、住民も増えたみたい。

セブンイレブンもしっかり出来ていたし、緊急の用足しには最適だね。

飲食店が増えていたのも感心したが、大昔世話になってた中華屋さんが暖簾を下ろして看板だけが寂しそうだった。

 

 

その後で、28歳の時にやってた「ペガサス」という名のショットバーの跡に行ったが、影も形も無くなっていた。

ここは元奥さんと結婚した時に本籍地として登記した僕の人生の墓場のつもりのところ。

経営者としての出発点でもあるが……。

その前にあった「洋服のまりや」や「おもちゃのまりや」も何処に行ったのか無くなっていた。

子供が幼稚園の時に一緒だった「たまきや」も同様に無い。

伊勢佐木町の1~2丁目で知ってるお店が殆ど店仕舞してる。

隣組ではお好み焼き「二代目」が新しくビルになってる。

ふぐの「山田屋」さんも健在だったが、隣に「とらふぐ亭」とは皮肉なもんだ、商売敵が隣に来るとは迷惑千万だよね。

 

 

ぷらぷらと「イセブラ」を決め込む。

2丁目からスタートし、7丁目までしっかりと時間を掛けて思い出に浸りながらゆっくりと楽しむ。

10年一昔とはよく言ったものだ、僕の記憶は20~30年前で止まっていたいたのか、町が変わらないのが可笑しいのに馬鹿のまま。

 

長女が出来て32年以上も経つんだから、変わっていて当然だ。

子供たちと自転車で連なって横浜でも中区を中心によく色々なスポットに出かけていた。

その頃の記憶しか甦らないの不思議だけどね。

人って嬉しい時の記憶が最高なんだよね、子供たちとの思い出は沢山あるけど、書ききれない。

 

 

 

伊勢佐木町7丁目にあった「石黒写真店」の石黒一臣君はどうしているかなあ、facebookのお友達にはなっているけどコンタクトは取っていない。

時効だから言えるけど高校生の時からお店に飲みに来てくれ、多くの友達を紹介してくれた。

 

高校生の男女とお店を閉めた後で「パーティー」を開いたりもしたことも懐かしく思い出す。

丁度、干支で一回り違う寅年の子が多かった。

 

 

お店を手伝ってくれた「のんちゃん」の実家も健在だった。

彼女ともよく飲んだ、一臣君=おみくんとも一緒の機会が多かったが二人きりの時の盛り上がりも別なものがあった。

 

 

そういえばもう一人、おみ君が連れて来てくれてお店を手伝ってくれた「あけ」はどうしているかなあ。

facebookで友達申請しても、何ら反応が無かったのは思い出したくないことなんだろうね、悲しいけど神奈川県会議員夫人だから。

うちのお店のNo.1とNo.2だったのにね。
何人もいなかったけど。

 

 

 

だけど、やっぱり最高だったのは元奥さんかな。

出来ちゃったけど結婚までしちゃったんだから、入籍しただけの。

お店と50mしか離れていないところに借りたアパートに押しかけてきての同棲生活、古くて狭かったけど出来ちゃったの仕込み所。

 

5年付き合ってた彼女が急に訪ねてきて、みすぼらしいからもっと別のところに引っ越してくれと言って100万円持ってきた。

 

元奥さんと関係する前だったけど、丁重にお断りしてお金をつき返して彼女の元にも返らなかった。

 

 

あの頃は何故だかお金が回っていた、お店やったときも1200万円の事業資金が掛かったのに自己資金は200万円だけ。

良くやったと自分を褒めてやりたい気分、28歳でオーナーだよ。

 

当時の平和相互銀行横浜支店の支店長から色々と便宜を図っていただき保証協会や国民金融公庫からも借入が出来た。

 

 

この時は、親の金をびた一文貰わない主義を通せた我儘な息子。

田舎に帰省しても、お小遣いの一つも貰ったことが無い。

成人式の晴れ着でさえ断って、高校時代のジャージで小倉の町を闊歩していた。

本当に可愛くないガキだったと思う。

でも、お店の開店祝いと子供ができた時からのお祝いは遠慮なく貰うようにした。

 

 

挙句の果てが、教材屋と喧嘩して辞めた途端に借金まみれとなり親からも借金をする始末、情け無いね。

元奥さんのおやじさんからもだよ、本当にゴメンナサイ。

お店もバナナじゃないけど叩き売り、ゴルフの会員権も不動産も時計も宝石も、金目のものは全て叩き売っても足りない。

順風満帆の青年実業家からいきなり借金地獄へと奈落の底へ。

サラ金やクレジットカードで借りられるお金はバンバン借りた。

そして、アウト。

 

 

 

自己破産直前の寸止めで、自分で債務整理を全てやり簡易裁判所で和解に持ち込みものの見事に解決した。

二度ほど赤紙張られての裁判所からの差し押さえもくったけど。
今にして思えばイイ経験をさせて貰った、ありがたいね。

この喧嘩も自分の蒔いた種、頑固で若かったからしょうがないよね。

 

 

会員制ビジネスを成功させるノウハウだけは、残ったんだから。
これからイイ思いが出来ると思えば安い授業料だった。

 

 

 

横浜の思い出から妙な方向に変わってきたし眠くなったからお仕舞い。

 

じゃあ、またね。

 

会員制ビジネス構築コンサルタント@福だるまでした。